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わたしたちは、なぜ話し合いを求めるのでしょうか 大澤恒夫(弁護士) 2004.5

◆あるマンション住人間のもめごと

例えば、あるマンションの住人Aさんと同じく住人Bさんとが、共同駐車場の隣同士でして、ある朝、その駐車場でAさんが自分のクルマのドアに凹みがあるのを発見し、「これは隣のBがぶつけたに違いない、そういえばBは朝挨拶してもフンという顔をしてろくに返事もしない、クルマもいつもスレスレに停めていて、いつかやるんじゃないかと心配していた、とんでもないヤツだ」と思って、Bさんの部屋に怒鳴り込んだ、とします。Bさんは逆に、「とんでもない濡れ衣だ、侮辱するのもいい加減にしろ、Aはいつもこのマンションの中で大きな顔をして威張っている、とんでもないヤツだ」と憤慨し、玄関先で喧嘩になりました。その後、A家とB家は犬猿の仲になって、周囲の住人も巻き込んで悪口の言い合いのようになったとします。最近のテレビのバラエティ番組で弁護士が登場して、こういうような身近に起こる可能性のあるような事案を劇に仕立てて、「さて、みなさん、このもめごとでAさんはBさんに慰謝料を請求できるでしょうか? 請求できる場合は、いくら位でしょうか?」などという設問を提示して、ゲストの芸能人に答えを予想させ、最後に弁護士が正解を述べて説明する、というようなものがありますね。「ADRへの挑戦」をお読みいただいている読者のみなさんは、どう思われますでしょうか?

◆「慰謝料請求権」?

確かに、このもめごとがA さんとBさんとの間でどうしても解決がつかない場合に、最後の最後のところで訴訟に訴えて、裁判所の判決を求める、という事態に発展することはあるかもしれません。その場合の究極の(つまり和解でも解決がつかない場合の)裁判所の判断は「慰謝料請求権の有無」ということになるかも知れません(場合によっては、名誉毀損的な特定の発言の禁止を求める差止請求権の有無、というような「法律構成」が考えられることがあるかも知れません。)。しかし、これでAさん(あるいはA家の人々)とBさん(B家の人々)とのもめごとの解決がつくでしょうか? AさんやBさんが求めることは、「慰謝料請求権」(あるいは「差止請求権」)の有無の判断でしょうか?

◆法律論での紛争の全体性の分断

 近代の法は、封建的で無定量な、予測のつかない不合理な負担から人々を解放することを目指しました。その意味で「法的権利」「法的義務」として何が「強制」され得るのかを明確にすることは、人々を封建遺制から解放し自由を保障する、とても重要な意味を持っています。しかし、「法的権利・義務」論は、生身の人間が現実に直面するもめごとの全体性を、人工的に分断することになります。例えば、先ほどのマンション住人のもめごとを例にすれば、Aさん(A家)とBさん(B家)は、お互いの誤解から朝から晩までマンションの内外で相互に嫌な思いをしながら生活しなければならないという全体的な状況を抱えているのであり、そのような中にあってAさん、Bさんが解決したいと望むことは、わずかばかりの慰謝料を取り立てることではなく、相互に誤解を解いて、素直な気持ちで謝り合って、仲直りし、再び平穏なマンションライフに戻ることかもしれないのです。ここに法律論が首を突っ込んで、このもめごとを解決するのは、慰謝料請求権や差止請求権の有無を法律的に判断し、その判断をAB間に通用させることだと断定することは、生身の人間としてのAさん、Bさんの問題状況のごく一部を人工的に切り取って、それを法的に構成して、議論や証拠の優劣を競い合う(その過程で相互に相手は嘘つきだと罵り合う)という、憎しみ増幅のプロセスに陥れることにつながるでしょう。

AさんBさんの思いをすりあわせる

 わたしどものように人々のもめごとの解決や予防に関与する者は、近代の法のもつ自由保障機能の重要性を十分に踏まえつつも、生身の人間の直面する現実のもめごとの全体性をいたずらに壊すことなく、その中で呻吟している人々の真に望む解決というものを、その人々に寄り添って一緒に探求するという姿勢が必要ではないでしょうか。そのためには、Aさん、Bさんそれぞれが心の中で本当に望んでいることをお互いに率直に出し合って、話し合い、すり合わせることができるように、Aさん、Bさんを支援することが必要でしょう。そして、相互に納得の行く解決の道を探求することが望まれるでしょう。

◆「納得」を紡ぎ出す自律性と正当性

 Aさん、Bさんが納得の行く解決を探求する場合、その「納得」を支えるのは何でしょうか。わたくしは、大きくいって二つの点が重要ではないかと思います。第一は、その解決が自分で決めたものだと思えることです(自律的な決定)。どんなに正しい解決でも、他人から押し付けられ不承不承に受諾したものでは、人はなかなか納得ができないものです。しかし、第二に、同時に解決の内容が正しいと思えるものでなければ、いくら自分で決めたといっても、あれは正しくない内容だったと後々悔やむようでは、本当の納得にはならないでしょう(内容の正当性)。このような自律性と正当性が真の納得を紡ぎ出すのであり、もめごとに直面している人々が自分で正しいと思える解決を自分で決めて掴み取ることができるようにならなくてはならないでしょう。

◆励ましと気付きの支援

 しかし、人は現実の深刻なもめごとに直面すると、問題の深刻さを前にして気持ちが萎縮し、どうしてよいかわからない、思ったことが言えないといった状態に陥るものです。逆に、激しい感情的な嵐の中で相手に対する怒りの気持ちに支配され、過剰な思いに駆られて、言わなくてもよいことをつい言ってしまうこともあるかも知れません。こうしたもめごとの当事者に、萎縮を克服して自分の気持ちを見つめ直し、正しいと思えることを言えるように励ましを行い、あるいは過剰な激情に気付いて相手の話にも素直に耳を傾けることができるように援助するといったサポートをする必要があるでしょう。このようなサポートを提供するのが相談であり、メディエーションなのです。

◆対話の前提とプロセス

 AさんもBさんも萎縮したり、過剰になったりせずに、お互いに尊重しあうべき個人であることを認識して相手の考えに耳を傾け、相互に、いろいろな角度から質問しあい回答し合い、受容すべき点に気付いたときは率直に受容し合い、これらの過程を通じて相互の平和的な共生を図ってゆくことが望まれます。もめごとに直面して苦しんでいる人々にこのような対話の場を提供することを通じ、多少なりともお役に立てれば、望外の幸せです。                                                 

(おわり)

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